学校における勉強も、企業における仕事も、個人の私権獲得のための闘争です
課題共有の下に共闘しているのではありません
課題も、その成果も個人のために存在します
これが、既存集団が共同体とほど遠い理由の一つです
これに対し、一定の集団で行う農林水産業は、課題が集団内で共有されている上に、成果そのものも共有されています(もちろん役割分担による分配は存在しますが)
仕事・勉強と言った課題よりも、はるかに課題共認=「皆でやる」が明解であり、成果も明解なのです
当然課題共認が出来ていると言うことは、共同体の命綱と言える「期待・応望」の圧力・充足が感じやすいことに繋がります
この「期待・応望」の圧力と充足こそが、農林水産業に感じる充足イメージと可能性の正体ではないでしょうか
確かに、黒田さんが仰られる「自然と触れることによって得られる充足」も重要だとは思います
しかし、たとえ「自然に触れる充足」があったとしても、そこに存在する課題(生産)の圧力・充足が私権をベースにしていては、何ら意味をなさないでしょう
「皆で作る喜び」を知るのではなく、「個人で取り組む」を知るのでは意味がありません。勉強と変わらないのです
「皆がやるから仕方ない」では、個人的意識を超えないので「皆で作る喜び」には辿り付けません
(確かに、時間の経過とともに気が付く可能性はあるとは思いますが・・・)
「皆でやる」からこそ、充足があり、意義があるのです
現代の若者は充足を知らないと黒田さんは書かれています
確かに、「自然に触れる充足」も知らないし、それはそれで重要な問題です
しかし、それ以上に深刻なのは、この競争社会・私権社会の中で完全に失われてしまった「皆でやる」充足≒「期待・応望」の充足を知らないこと、そして、そういう充足の場がほとんど失われてしまったことだと思います
|
|