中村先生、玉川さん、岡本さん、縄文の婚姻様式について横から失礼します。
私は、まず人類の婚姻関係は(縄文の族内婚も含めて)全て、親子や男女の「役割(関係)規範に基くもの」であり、サル以前の哺乳動物の「縄張り本能に基く性関係」などとは、全く成立構造が異なるものだと考えています。
そういう視点で見たときでも、祭りの夜など相手を特定しない“一夜限りの性”は、日常の「相手規範の枠外で行われる」という点で、「犬畜生と同じ」と思われるかもしれません。しかし、祭りで結ばれるかもしれない性相手=祭りの参加者を集団で共認しているという大前提があるかぎり、集団規範の枠内での性関係であることに変わりはないのです。
このうえで考えればわかるように、祭りの夜よりも日常的な男女関係規範としての「兄妹婚や交叉婚」については、単位集団内や交叉集団間で共認した「集団婚」なのです。田野さんの投稿にもあったように、集団の戦略?から完全に自由な個人が選択する現代のフリーセックスなどを連想してしまうと、実態(オープンではあるがフリーではないetc.)から大きくイメージがずれてしまうのではないでしょうか?
>以下過去投稿5855より抜粋
ここで重要なことは、乱婚といっても個人が好き勝手にやっているわけではなく、集団内でのルールに則った婚姻様式である、ということです。逆にいえば、個人の好き嫌いなどの選択によって、好きな者同士がくっつく、という排他的な関係では乱婚は成立しないとも言えます。婚姻の単位は個人ではなく集団であったのです。
まず、集団内で婚姻規範が共認され、それが、男女役割規範と繋がっていることがポイントだと思います。具体的には、大人の男(女)の役割を果たせるようになることが“婚姻の資格あり”と共認されることとイコールなんですよね。
そうして、婚姻の資格ありと共認された時点で、自分で探したり、選んだりしなくても、自然に交わる相手が“そこ”にいるわけですから、抜け駆けは不用だし、後ろめたい思いや抑圧抜きで、肯定的に男女関係を捉えられるのでしょう。
なんと言っても、“周りから無条件に肯定視される男女関係”だというところが、性が集団の重要課題として規範化され、共認され、そこに強い期待・応望の充足関係が構築できる一番のポイントだと思います。
さらに、婚姻相手も、自分たちも一人づつではなく“仲間男(女)集団”であることから、個別の男女関係の問題も、一人で背負い込まなくても、皆で分かち合っていける。それを踏まえて“自前の婚姻規範”を考えていけるのだから、現代の「自由恋愛」よりもよっぽど自在な共認充足が得られますよね? |
|